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折井宏司

有限会社モメンタムファクトリー・Orii

ABOUT

1611年、前田利長が招いた七人の鋳物師。彼らが現在の高岡市における金属加工工業の礎であり、研磨、彫刻、形成、着色に至るまでのあらゆる技術において卓越した評価を得ることになったきっかけでした。


折井宏司さんの祖父は、1950年に折井着色所を設立しました。長年にわたって高岡で培われ、洗練されてきた技術の中では分業が進み、折井着色所は銅器の着色に特化した技術を研鑽していきました。


1970年代、幼かった折井さんにとって、この会社は遊び場でした。毎日毎日、父親と祖父の仕事を熱心に観察し、意識しないままに専門技術の知識を見取って吸収していったのです。同じように自分も、この仕事をするだろうと考えていた日々でしたが、しかし、学校を卒業後、東京でエプソンに就職し、サラリーマン生活をはじめました。当初はシステムエンジニアとして、後に社内LANセットアップに携わるなどの経験を積んでいたといいます。


東京での生活はうまくいっていました。しかし、同じように東京で生活し、成功していた叔父に会ったあるとき、彼の運命が変わりはじめたのです。折井さんは、叔父に自分も同じように東京でキャリアを積み、成功者になりたいと話しました。それに対して叔父は怒りながら、実家を継ぐことの重要性を説きはじめたのです。おまえが継がなければ、折井着色所はなくなり、全ての技術も失われてしまうのだとの言葉は、折井さんの心に深くつきささりました。そして、会社を辞め、高岡に戻ることを26の時に決断したのです。


折しも長引く不況のさなか、折井着色所は大幅な赤字経営となっていました。折井さんは、受注を待って加工を引き受ける業態からの脱出、すなわち自らで製品を生み出す方向を目指すことを思いつきます。若い層にアピール力のある商品開発、現代のライフスタイルにかみ合う物作りを念頭に、技術を研鑽。同時に新しい着色法の開発にも挑み続けました。そして、偶然にも助けられて生み出されたのが『孔雀色』の着色技術です。


努力が報われた現在、『モメンタムファクトリー・Orii』の名の下に、折井さんが生み出した着色技法と製品は数々の賞を受け、内外で注目を集めるようになりました。しかし、折井さんの研鑽は終わること無く続き、次なるステップを踏むために、たゆまぬ努力は現在も続けられているのです。

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